2015年11月24日火曜日

リーダーとマネージャー

東洋経済新報社刊の「人材価値評価」という本に、
マネージャーとリーダーの対比があります。
すべてが正しいわけではないでしょうが、
こんな考え方もあります。


マネージャー                       リーダー   

感情的でない      ――    情熱的な夢追い人
告げる                           ――    尋ねる
話す                              ――    聞く
あまり期待しない             ――    もっともっとと励ます
なかなか信頼しない         ――   容易に信頼する
落ち着いている  ――    情熱的
答えを知っている             ――       提案に対してオープン
「どのように」を告げる   ――   「なぜ」を共有する
指示する  ――   方向を示す
部下を持つ  ――    フォロワーを持つ
細部を見る  ――   全体像を見る
システム中心  ――   人中心
「のように」と「なぜ」   ――    「何を」と「なぜ」
維持する  ――    始める
統制する  ――    鼓舞する
離れた位置にいる  ――    一緒にいる
目標/計画  ――  アイデンティテイ/価値観
仕事を適切に行う  ――    適切な仕事を行う
優れた兵士  ――    自分自身
損益を見る  ――   先を見る
安定を目指す  ――    変化を楽しむ
構造的  ――    柔軟
現状を認める  ――    現状に挑戦する

リーダーはリーダーの素養さえあれば十分なのでしょうか。
マネージャーはマネージャーの素養さえあれば十分なのでしょうか。

リーダーは、マネージャーでなくてもいいのでしょうか。
マネージャーは、リーダーである必要はないのでしょうか。

あなたの今の仕事は、マネージャーの仕事でしょうか。
それとも、リーダーの仕事でしょうか。

リーダーとマネージャー。
その違いを、あなたは説明することができますか。

あなたに必要な素養は、リーダー的なものでしょうか。
それとも、マネージャー的なものでしょうか。

2015年11月16日月曜日

コミュニケーションは一方通行

コミュニケーションは受け手がどう受け取ったかが問題で、
あなたが何をどう話したかは問題ではありません。

新入社員のときに同期の女性にこんなことを言われた。
「コピーライターが話すと、うそでもほんとに聞こえるよね」
このときに私は、美辞麗句という名のうそで固めたコピーは
絶対に書かないと誓った。

画家の友人の個展に行ったときに、感想を求められて。
「芸術って、受け手がどう感じるかですよね。
 コミュニケーションもそうですよね」

「言った」「言わない」でけんかになることはよくある。
事実はともかく。

言ったほうは確かに「言っている」のに、
聞いたほうが言った人の「言ったこと」を言った人と同じ意味で捉えていないから、
このけんかがいつも起こる。
「そういう意味じゃない」のに「そういう意味」に取ったということは、
送り手のメッセージが受け手には伝わっていないということに他ならない。

言うほうは、言われる人の気持ちになって、
言ったことや意味と、言われたことや意味、が同じかどうかをいつも意識したほうがいい。
確認したほうがいい場合もたくさんあるはず。

日本的な、「わかってるよな」というような阿吽の方便は絶対に避けるべき。
それはビジネスに限らない。
夫婦の約束にしてしかり、恋愛中のプラス思考カップルにしてしかり。
熱が冷めたときに、言ったことが言われなかったことになる、反対に、
言わなかったのに、言ったことになってしまうことは多いのですから。


あなたの言葉は、相手に正しく伝わっていますか。
正しく伝わったかどうかを何で判断していますか。

2015年11月9日月曜日

街なかで見かけることが難しい、「受容」と「共感」

先日の、良く晴れた日曜日のこと。
事務所に向かう道で、スーツ姿の母親と3歳ぐらいの男児を見かけた。
近くの幼稚園の入園試験だろうか。きちんとおめかししている。
男児がはしゃいでたかと思った瞬間、転んでかすり傷ができたようで
苦虫をつぶしたような顔に変わった。
母親は息子に近寄って、言う。
「痛くない。大丈夫。」すると
男の子は泣き出した。

親は多くの場合、同様な声のかけ方をする。
「痛くない。男の子だろ、泣くんじゃない」
「大丈夫。我慢しなさい。」
確かに、死ぬほどの出血ではない。
大丈夫であることは確かなのだが、
当の子どもにとっては、
「かすり傷ができた」
「痛い」
「血もにじんできた」
いやぁな気分になっているに違いない。

親に向かって自分の気持ちを主張しているにもかかわらず、
親はいとも簡単に否定してかかっている。
自分の主張が聞き入れてもらえなくて、
子どもはさらに大きな声で泣く。泣き続ける。
泣き続ける子供に向かって親はさらに言う。
「うるさい。」
「泣くんじゃない。」
「痛くない。」と。
泣き声は大きくなるばかりだ。

子どもは痛くて泣いているのではない。
親に自分の主張が受け入れられないのが辛くて泣いているのだ。
自分の感情が理解されていないことに憤って泣いてるのだ。

こんな時には、そこに起こっているそのままを受け入れてみる。
「擦りむいちゃったねぇ」
「あ、血がにじんでいる」
「痛いねえ」
すると子どもは泣くのをやめる。
「急に走り出してころんじゃったねえ」
「何につまづいちゃったんだろう」
「何かにひっかかっちゃったかなぁ」
子どもは、
「こうなって、ああなって、転んだ」と説明を始める。
もう涙は完全に止まっているはずだ。

人は、自分を受け入れてくれる人を自分の側の存在だと思う。
一緒にいることが心地よいと思う。
自分の主張や意見に反対する人を敵だと思う。
受け入れることが困難になってくる。
自分を受け入れてくれる人の言葉やアドバイスに耳を傾けることはできるが
自分の話を聴いてくれない人の話は聞きたいと思わない。

親子の会話の中に、学校の会話の中に、仕事仲間の会話の中に
「相手の気持ちを受け入れる」という感情があれば、
コミュニケーションはきっと、いや、必ず変わると信じている。


あなたの会話は、相手を受け入れる会話でしょうか。
もっと受け入れていることを伝えられるとしたら
どんな会話をすればいいと思いますか。

2015年11月1日日曜日

日々のこと_20151101


スタッフがお友だちから丹波篠山の黒豆をいただいてきた。
大晦日にまるまると太った黒豆を甘く炊くのが母の習慣でした。
黒豆は豆の中心まで黒いわけではなく、
豆の外側にある薄皮だけが黒い。
ちょっと不思議。

筆者の苗字は「小篠」と書いて「おざさ」と読む。
関西の方には、「丹波篠山のササで小篠」。
九州の方には、「福岡の篠栗線のササで小篠」。
武蔵野の方には、「吉祥寺の羊羹小ざさとササが違うんですが
オザサと読みます」と言っている。
ファッション界の方には、「コシノヒロコ、コシノジュンコと同じ
漢字で、小さいにシノ(篠)と書いて、オザサと読むんです」と。
名前を覚えていただくためにいろいんな方法を使っている。

初対面コミュニケーションの第一歩である自己紹介。
あなたはどんな自己紹介をされていますか。